HIDEKI Wikipedia

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西城秀樹氏の私設Wikipedia

西城秀樹という人は天性の”愛されキャラ”[116]。末っ子で両親や姉・兄に非常に可愛がられて育ったため[116]、年上の心を掴むのが上手く、芸映やRCAレコード(現・ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)のスタッフ・音楽関係者が口を揃えて「性格がよくて人懐っこくて礼儀正しい。何事にも真面目に取り組むから、スタッフは皆『ヒデキのためにやろうじゃないか』という意識になった。そういう求心力や人間的魅力があった」と証言している[116]

 

西城は当初、同じ年のアイドル、野口五郎・郷ひろみに人気で後れをとっていた[116]田頭信幸伊丹幸雄など、ほぼ同世代で西城より人気が先行していた男性アイドルも他にいて、野口や郷に比べて新御三家では三番手の扱い[116]。1973年は新御三家初どころか、1970年代デビューの男性アイドルで初めてオリコンシングル1位という偉業を達成し、さらに『第15回日本レコード大賞』で初の歌唱賞を受賞したにも関わらず、初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選。関係者の落胆は大きく、それ以上に西城のショックは大きなものだった[116]。こうした逆風もトップになるための試練と強く受け止めた[116]

 

当時劇団四季の演出家だった浅利慶太は西城の事を「秀樹はいい子だ、彼とだったら喜んで一緒にやろう」というのがスタッフ、キャストの共通した意見ですね。多勢の共演者に好かれるということは、その場の繕いで出来る事ではありません。あれだけのスタイル、スターとしての人気がありながら全く人間的に、昂ったり、驕ったところがなく、非常に素直に成長していますね。僕は、年に一度か、二年に一度、彼と組んでやりたいと思ってます」(原文ママ)[492]

 

2011年読売新聞インタビューで西城は同じ広島在住だった9歳年上の吉田拓郎とも接点があった。吉田についてインタビューでこのように答えている。「(地元広島のバンド在籍時に)拓郎さんとも一緒にやらせてもらったことがあって、歌手になってから拓郎さんに会ったら、『あのちっちゃかった木本君だろう』と言われたことがあります。その縁で曲を書いてもらいました(1982年リリース『聖・少女』)吉田は西城のデビュー前の歌唱を覚えていた[493]

2018年5月18日、中国問題グローバル研究所所長の遠藤誉はこう伝えている。「中国にはウィキペディアに相当したような『百度百科』というのがあるが、そこにも『西城秀樹』の項目があり、彼が歌った歌のタイトルが100曲近く列挙してある」「西城秀樹さんの歌を中国人歌手が歌ったものが多く『あなたが聞いたことがあるあれらの歌は実は西城秀樹の歌だった』という見出しの記事もある」[494]

 

同年5月21日、西城のバックを藤丸バンドとして務めるなどした盟友・芳野藤丸はこう語っている。「秀樹はヘタなロックよりロックしていて、いやロック以上だなって。エンターテイナーとして素晴らしかった」[495]
2021年2月27日(発売日同年2月22日)週刊現代3月6日号で音楽ディレクターの岡村右は西城の事をこう評している。「彼を『天才肌』と言う人もいますが、僕は決してそうは思わない。本物の努力家でした」[496]

 

また西城の細やかな気遣いについても岡村は「私が特別だからというわけではない。彼はファンを含めて、自分の力になってくれる人を大切にしていました」[497]。「超売れっ子でしたから、少しくらい天狗になってもおかしくない。でも秀樹は真逆でした。レコーディングのたびに、どこが良かったか、どこが悪かったか、いつも食い下がるように聞いてきました」と回顧[498]

 

日本歌手協会理事長の合田道人は西城の事を「ヒデキさんは、汗が飛び散ってカッコいい男でしたね。まるでスポーツ選手のような、汗が似合う男性だったんです。今も西城秀樹の代わりになる人はいませんよ」と三回忌後に語っている[499]。写真家の中村昇は西城の事を「素顔は大らかでストレート、裏表のない気さくな青年」、またスタジアムライブでは「本番での秀樹は、僕を見つけると必ず目線をくれたり、ニコッと笑ってくれたりするんですよ。そんなときは男の僕でもドキッとするほど魅力的でしたね」と回顧[500]。2021年4月13日、西城の生誕66周年にオリジナルアルバム復刻発売が決定、その日に発表された。レコード会社へのアルバム再発のリクエストも多く、またファンの間でもCDとして手元に置いておきたいという要望も多かった[501][502]

 

2021年4月19日「誰も知らなかった西城秀樹。」青志社からファンの熱望により復刊された。但し1975年出版のものとは多少の違いがある。初版の207頁・復刻では223頁の「新人の草川佑馬」が復刻では「詩人の草川佑馬」(誤植)、また復刻の145頁には「注釈」が新たに加わっている。復刻の写真は全て違うものとなっている[503]

西城の盟友、芳野藤丸は2021年4月21日自身の古希(70歳)の記事で「『薔薇の鎖』や『激しい恋』などのヒットを出しまくっていた頃ですけど、フランクに話せたからすぐ気軽に“秀樹”って呼べるようになった。土日は毎週、秀樹のコンサート。地方にもあちこち行っていたし、『8時だョ! 全員集合』などのテレビ番組にも出た。本当にいい経験をさせてもらいましたよ」またスタジアムコンサートでの事も語っている。「30mもゴンドラで吊り上げられて乱れることなく歌うんですからね。本当にすごいと思いましたよ。僕もリハの時に命綱を付けて乗ったけれど、下を見ることもできなかった」[504]

 

親友の野口五郎「絶え抜く “Never Give Up” より燃焼した “Give Up” の似合う大人がちょっといい………。我が良き友へ」(デビュー15周年時)[505][506]。西城の結婚式・葬儀の司会をした徳光和夫、86年当時「リハーサル・ランスルー・本番、いつの時にも力をぬかず、そんなヒデキが好きでした。アイドルの時代から、世当りのへただったヒデキ。若き獅子の中の1頭で常にいてほしい」(原文ママ)[507]

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