広島東洋カープのファン[545]。また広島のお好み焼きは、学校帰りや部活、バンド練習の帰りなど、何かと仲間とつるんで食べた青春の味、ソウルフード[40][370][546]。
「最後の晩餐」にもお好み焼きを選んだほど[370]。広島の実家では4、5軒隣りがお好み焼き屋だったが[5]、1970~80年代の東京都内では広島のお好み焼き店は数軒、10数軒だったため[370][注 31]、都内を探しまわり渋谷の「マコ」や千駄ヶ谷の「お多福」などでよく食べた(両店舗とも現在は閉店)[141][548]。年350回通ったこともあり[548]、海外から帰国すると家にも帰らず直行した[367]。
お好み焼き好きが高じて1980年代前半に原宿パレフランスビル地下1F[注 32]にレナウンから店を借りて友人に譲り、お好み焼き店「MOMIJI HOUSE(モミジハウス)」をオープンしたこともある[61][550]。その店で働いていた人が渋谷の宮益坂を昇りきった左側の青山セブンハイツ1階に1984年「MAO」という広島のお好み焼き店を始めたため、この店の常連でもあった(現在は閉店)[61][370]。
知名度が今よりずっと低かった時代から、テレビ番組等でよく広島のお好み焼きを紹介し、やはり1980年代に都内で広島のお好み焼き店を6店舗経営していた島田洋七とともに広島のお好み焼き普及者の一人であった[61][370][551]。