デビュー当時、才能を認められ、先輩の歌手として兄のように慕っていたのは布施明だった[22]。布施は初期の西城のコンサートのプロデュースに加わっていたこともあった。
ヴォイストレーナーの大本恭敬の息女・大本京は「呼吸法、共鳴(深い響き)、地声からファルセットまでを自在に使いこなせるように、徹底的にたたき込みます」と語り「西城秀樹はどんなジャンルも歌いこなす唯一無二のスターだった」と回顧している[512]
西城をスカウトした上条英男との関係から、芸映に所属する前に暫くの間、上条の事務所「ジュエム・カンパニー」に所属した[61][67][230]。西城秀樹という芸名もその時付けられ、西城のサインは同じ事務所にいた五十嵐淳子が考えた[61]。
デビューして半年後の1972年9月22日に『週刊セブンティーン』の企画で[513][514]、東京北区滝野川周辺の女子高の前で[注 30]ヒデキグッズ(サイン入りノート)1500冊を配った[116][513][514][515]。同誌で告知もしたため、他校の生徒まで押しかけ女子高の門前でヒデキグッズの奪い合いが始まり大騒ぎになってパトカーが出動する事態になった[513]。10月17日に今度は市ヶ谷から飯田橋付近の公園に出現すると告知し、再びノートを配った[113][514]。これは女子高生に熱狂的に支持されるヒデキをワイドショーに取材してもらい、お茶の間の主婦層にもヒデキの人気ぶりをアピールしようというプロモーションの一環だった[116]。
若い頃はケンカっ早く、和田アキ子と取っ組み合い(寸前)のケンカをしたことがあると和田の著書に記述されている[516]。この一件で仲良くなり、以降は姉弟のように付き合った[517][518]。